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芸術を学ぶとは

芸術は砂漠のなかの湖のようなものかもしれません。なにもないところにちょっとした機運によって、水がたまります。砂の無形の素地から水面という有形が浮かびあがります。それを奇蹟という人もいます。驚異の出来事はさらに目を見張る光景を繰りひろげていきます。水たまりが湖になり、その縁から堰を切って川が流れ出します。川筋が縦横無尽に砂漠を走るさまを想像することもできます。また、おなじように誕生したいくつもの湖がさらに大きな湖に変容していくさまを想像することもできます。しかし、どれほど豊かにイメージが展開しようとも、それらは、一瞬のうちに、消え去るものでもあります。目の前には、ただただ、よりどころのない無形の砂漠がひろがっているばかりです。

芸術学を学ぶとは、たとえていえば、だれの土地でもない無主の砂漠に、驚嘆すべきこととしてたまさか揺らめくであろう、水の変幻自在な陽炎の目撃者になることです。水の轍をたずね、繊細で鋭敏な感性の証人になることです。

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芸術学を学ぶ人のプロフィール

芸術が好きな人はなにをするか。ある人は自分も芸術を作ろうとする。日本画や洋画などの実技のコースで学んでください。

ある人はもっと芸術にふれたいと思う。図版でしか見ていなかったら、現物も見てみたいと思う。一日に何本かのバスしかない僻地の聖堂にそれが安置されていようとも、見に行こうとする。こうして旅をつづける。始めも終わりもない旅を……。

そう、美の追跡者、美の狩人、そうなれる人そうなりたい人こそが、芸術学を学ぶ人です。

歴史も理論も

いろいろな科目を用意しています。古今東西、いろいろな芸術にふれていただきたいと思います。知らなかった芸術を知ってしまった芸術にどんどん転換していってください。未知の芸術領域はいくらでもあるはずです。新たな芸術との出会いによって刺激を受け、目を肥やし、感性を養い、芸術の新しい価値をご自身で見いだしていってください。

科目としては、大きく、歴史の科目と理論の科目にわかれます。「芸術学Ⅱ」などは、歴史の科目です。地球上のそれぞれの場所や時代にどのような芸術が花開いたのか、ざっと展望できる眼力を身につけてください。感性の引き出しが増えたご自身を実感なさるはずです。

「芸術学Ⅰ」などは、理論の科目です。古今東西、美や芸術についてどのように語られてきたのか、あるいはいま芸術はどのように語られるべきか(語られうるか)を学びます。漠然とものごとを知っているのと、言語によって体系だって知っているのとは、質的な差異があります。言語化することによってはじめて気づかされることも多いです。美や芸術について語る語り口を学んでいただきます。

芸術学は、芸術を制作する実技のコースではなく、芸術を広く知り、深く理解し、言葉でそれを人に伝えることをおもな作業とするコースです。

身近なところから芸術を

芸術の敷居が高くなってはいないでしょうか。天才ばかりが芸術を作るのでしょうか。芸術的な感性は特殊な人にしかもてないのでしょうか。芸術の敷居は教育(もちろん大学教育もふくめて)やメディアの力によって不必要に高くされてしまっているかもしれません。「芸術的素養はないので」という百千の真顔の言い訳を聞くのはとても辛いことです。

今日、芸術と通称されているものは、英語ではファイン・アート(fine art)と呼ばれるものです(ちなみに、美術館の絵画やコンサートホールの音楽はファイン・アートと呼ぶにふさわしいものです)。それはファインと限定的にアートを規定した言葉です。しかし、ファインという形容詞をとったアートという言葉はもともとより広い意味をもっていました。それは「技芸」と訳するのに適切な生活をするうえでのさまざまな技(わざ)のことです。編み物をするのも、料理を作るのも、花を生けるのもアートということになります。アートは生活を快適にするためのさまざまな「技芸」のことです。

大量生産・大量消費ではなく、生活の質が求められる時代、「芸術」という呪縛を解き放って、身近なところから、アート(技芸)を再発見していくのも大事なことです。

学習の仕方(コツ)

学問は一日でなされるものではありません。一生かかってもなにかをなしたと言い切れるほどのものはなされないかもしれません。多くの人の学問的生活というのはそのようにすごされてしまうのかもしれません。

しかし重要なことは、かならずしも個人がエポック・メーキングな金字塔を打ち立てることではありません。学問的に生きるということで重要なことは、成果よりも持続だと思います。日々の積み重ねです。どのような小さなことであれ、一日のうちにでも、いまの一時間のうちにでも、一瞬のうちにでも、学問的な(芸術的な)なにかをなそうとすることです。学ぼうとすることです。そうしたことの積み重ねがあってはじめて、先人たちの積み重ねにも積み重なることができ、ときにふりかえって、なにかをなしたと言い切れるほどのことをなすことにもなりうるのです。たとえ言挙げされるべきことはなにもなされなかったとしてもいいのです。先人たちの積み重ねに積み重なり後人たちの積み重なりに積み重ねられるような積み重なりにだけはいますぐにだれでもなることができます。

卒業成果物について

芸術学コースは「卒業研究」に力をいれています。他大学では卒業論文なしで卒業を可能にするところもあると聞きます。時代にあえて逆行してまでも、当コースは「卒業研究」にこだわり、力をいれています。

具体的には、卒業年次に卒業論文(あるいは他の形態の卒業成果物)を書いてもらうのですが、それにいたるまでに、一年を通して、三度のレポートを提出してもらいます。それぞれ「草稿」「中間報告」「仮提出」の位置づけです。

そして、各学生にはテーマに沿って、専門の教員二人(主担当と副担当)が、あたかも伴走をするかのようにして、レポートの添削や講評の指導にあたります。また、年に二回の個人面談の授業もあります。

それだけではありません。卒業年次の前年に、「論文研究Ⅰ-1~2」「論文研究Ⅱ-1~2」を受講してもらいます。「論文研究Ⅰ-1~2」「論文研究Ⅱ-1~2」は「卒業研究」の前段階の必修科目です。ここでは、論文(あるいは他の形態)の書き方やテーマの選び方や資料の集め方など、面接授業を中心に懇切丁寧な指導がなされます。ですから、つごう二年をかけて、卒業論文(あるいは他の形態の卒業成果物)を仕上げてもらうことになります。

(画像の説明:版画:岩田英一(2009年度卒業生))

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